2019/07/07

「失敗情報」こそ知るべきである ー 白人最速ライアン・ホール&カノーヴァ先生の事例

成功と失敗は一体

成功と失敗はセット。
失敗の中から、成功は生まれるから。

そして人体という有限リソースを使うのがスポーツ。
「成功するやり方を、やり過ぎて、失敗する」という事がよく起きる。
己の能力の限界を極めるとは、そんな成功と失敗の境目を見極めるということだ。

それはクラッシュしない限界速度でコーナーに入るようなもの。成功シナリオは実現しなくても「残念でした」で済むけど、失敗シナリオの方は、起きた時に、取り返しのつかないダメージになることもある。

でも成功事例は世に出やすく、失敗ほど出てこないもの。成功者にとって、成功事例を語るor ドヤる のはそれ自体がある種の心理的報酬になる。それをパターン化すれば、華やかで夢のある話になる。みんながHAPPYになれる。

でも成功のしかたは人それぞれ。その人の遺伝子、性格、環境、目標、等々が複雑に作用するものだ。さ核心部分ほど言語化が難しい。隠している(こともあるだろうけど)のではなく、伝えたくとも言葉で伝えられないから。

むしろ失敗事例をパターン化した方が、現実に使える情報になると思う。
知っていれば避けられることも多い。

だから、失敗事例は希少となり、貴重となる。バランスとしても、より価値があるのは失敗事例の方だと思う。
僕もこれまで失敗ケースについての発信をしてきたけど、自分が気になったことが情報不足で、しかたなく調べてみたらこれまで日本語になっていなかった、ということが割とある。書きながら気が重たいことも多かったけど、結果としては感謝をいただくことが圧倒的に多い。

今回取り上げるのは、マラソン2時間4分台というアメリカ白人ランナーとして当時の最速記録を出したライアン・ホール選手の失敗を取り上げる。テーマは「休養・リカバリー」の重要性についてだ。


ランニング指導の「成功例」レナート・カノーバ

レナート・カノーバ(Renato Canova)は、中長距離走のコーチとして、オリンピック等のメダル獲得48個。NHK「奇跡のレッスン走れ!苦しみの向こうへ 陸上 長距離」(2019.02)でも登場している。
僕も

など、これまで「成功例」として何度か紹介してきた。

その指導法は、ケニア拠点のプロ・ランナー池上秀志さんブログ「レナト・カノーヴァから学ぶマラソントレーニング」(2019.02) が最新、かつ信頼性も高い。

要点まとめると、トレーニング手法の特徴として「特異性」「リカバリー」「高強度な練習の量」「変化走」の4つが挙げられている。
僕思うに(というか明らかに)、最も特徴的なのは「特異性」=マラソンの競技内容に近いもの=距離はハーフマラソン以上、ペースはマラソンレースの90%以上=という練習の重視だ。

その結末についても池上さんは正直に、「練習でここまでやってしまうと、レースで結果を出せなくなる選手の方が多いのも事実です。」と書かれている。

この成功と失敗とを分けるのは、2つめの要素「リカバリー」だ。練習がキツいから、休養を増やす。方法論としては極めて合理的。「ジョギングはトレーニングにならないのにリカバリーを遅らせる、だったら家で寝ている方がまし」なんて言葉もある。これ僕も同感。

Photo by Alexander Possingham on Unsplash

カノーバ指導の「失敗例?」ライアン・ホール

そんなカノーバの指導のもとで競技引退につながる失敗をしたのが、アメリカ白人最速ランナー、ライアン・ホール選手。2011年ボストンマラソン2時間4分58秒(非公認)、公認記録では2008年ロンドン2時間6分17秒。北米公認記録はモロッコからアメリカに帰化したアーリド・ハヌーシ2時間5分38秒(2002 ロンドン)だけど、素直な感情としては、アメリカ人最速、と言ってしまっていいだろう。ハーフマラソンも59分43秒と速い。ボストンは下りが多くて非公認だけど、公認のロンドンやベルリンだって下り基調だし、白人として4分台を出した実績は歴史に残る。

ホール選手は2010年までランニングクラブで練習していたが、その後、単独練習に切り替えて、翌年のボストンを迎える。この時に練習内容を相談していたリモートのコーチが、トライアスロン指導者のマット・ディクソン (Matt Dixon)。僕も何度か紹介してきた、徹底したリカバリーを強調するコーチだ。

惜しむらくは、ホールは休む、ということが嫌いだった。休養をカットして追い込むようになっていき、2012年のロンドン五輪は途中棄権。
それを自分の弱さと見て、カノーバコーチの指導を仰ぐ。単独練習のスタイルを保ち、別の街に住みながら情報だけやりとりしていたので、疲労状況=実際に走っている状況、動き、表情、等々までは伝わらない。コーチからリモートで練習内容の指示が来て、ホール選手はこのうちアクセル部分を受け取り、ブレーキ指示を軽視してしまった。

その結果、オーバートレーニング状態を慢性化させる。次の完走は2014年ボストンマラソン、タイムを9分落としている。「走り始めて15分で電池が切れたように足が止まってしまう」という状況になり、2016年に33歳で引退する。


成功と失敗を分けるもの

ここで失敗したのは、カノーバの方法論ではなく、ホールの「実行のしかた」。
同様のケースは、世の「成功事例」とされるものの周辺に、多数あるはずだ。

ライアン・ホールは人並みはずれて頑張れる人で、その努力を武器に、フレッシュな28歳頃までは伸び続けていた。
でもその武器は諸刃で、同時に最大の弱点ともなってしまう。休養すると不安になってしまい、頑張る。ダメージの蓄積が、30手前で急ブレーキをかけることになった。

その状況に客観的に気付くことなしに、さらなる「アクセル」を求めて、世界最速コーチによる、世界的にも最もシビアなアクセルを踏みはじめしまったわけだ。

この時、ホール選手に必要だったのは「自分自身を客観視する」こと。
でもそれは1人では難しいもの。
現実的には「失敗事例の知識」だったと思う。

実際、休養コーチのマット・ディクソンは、自身がプロ・トライアスリートであった90年代の現役時代に、休養不足のために伸びなかった、という失敗経験を持っていて、その失敗を昇華させてコーチとして成功している。ただ、世界最高を目指していたホールには、ものたりなかったのだろう。

「実行方法」まで極めるためには、現地で一緒にトレーニングすることで対応できる。その後、白人最速となったノルウェーのモーエン選手は、ケニアで生活までともにして、カノーバ流で成果を挙げている。
過去記事: マラソン欧州記録更新、ソンドレ・モーエン選手(とカノーバ コーチ)トレーニング説明は金言の宝庫! (2017.02)
ただ普通、ケニア生活できないわけで、現実的にできることは、「その成功事例に基づいた失敗事例」を知っておくことだ。


情報の限界

このような状況は、あらゆる分野で、多数あるわけだ。

さらに「成功事例は世に出やすく、失敗ほど出てこない」という冒頭に書いた仕組みにより、より強化されてしまう。

経験豊富な指導者がその場にいて、一緒に活動できているのであれば、この境界の問題は解決できる。見ればわかるだろう。結果として伝わればよく、言葉にすることの重要度は低い。

問題は、セルフコーチのような、抽象化された情報を第一のよりどころとする場合に、成功例のアクセルワークだけが伝わりがちな状況だ。

つまり、文字情報で「成功例」を伝えようとする時、「失敗例」はより強く意識して伝えなければ、相手を失敗へと導きかねないというリスクがある。

だから紙でもネットでも、言葉で伝える場面ほど、マイナスにこそアンテナを向けて、踏み込んでいくことが重要になってゆく。


参考書籍

ホール選手のエピソードは、『Good to Go 最新科学が解き明かす、リカバリーの真実』(2019.03, クリスティー・アシュワンデン)より。Amazon書評の平均は低いけど、5点と1点に割れているからで、この手の極端に割れる本は(5点がサクラでない場合は)面白いことが多い。


Matt Dixonコーチの方法論に興味ある方、最新刊 ↓
"Fast-Track Triathlete: Balancing a Big Life with Big Performance in Long-Course Triathlon"  (2018.01)は、英語だけどKindleとGoogle翻訳でどうぞ。(僕は未読です)

僕自身のトレーニングとリカバリーについての思考と身体感覚については、自著『覚醒せよ、わが身体。 トライアスリートのエスノグラフィー』(2017.09)に詳しく書いておきました。

(Amazonのは定価新品以外は買わないでね)

あとホールがカノーバに師事しようというタイミングでの英語記事がこちら:RunnersWorld2012.12記事

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