ネット発信をためらう人たちへ
ネット眺めてて、「なんで、当事者でもない人が、こんなに批判してるの? たいして大事な話でもないのに?」と引いてしまうケース、たまに見るよねー。
こちらはTwitterで医療方面から流れてきたジョークに乗ってみた:
初対面で控えた方がいい話題として、一般的に「宗教」「政治」「野球」は有名。— 八田益之『トライアスリートのエスノグラフィー』2刷 (@HATTA_Masuyukey) 2019年4月25日
アスリート間では、「走行距離」「SNSフォロー先」「栄養」の話題を不用意に初対面で持ち出すのはお勧めできない。
時折物凄いこだわりを持っている方がいて、一方的に非難されたり、その場で講義を開始されたりす文字数 https://t.co/zDylY0q04b
元ツイートもギャグなんだけど、プロ医療者さんが「抗生剤」「輸液」「栄養」などの基本技法にこだわりを持つのは自然ではある。ギャグになるレベルの「物凄いこだわり」にまで行っちゃうこともあるんだろう。
スポーツとかの場合は、そもそもが趣味の話なんだけど(プロスポーツも "究極の趣味" として存在しているわけで)、にもかかわらず、一方的に非難してくるようなネガティブ反応を、わりと見る気がする。
僕はそんな状況を楽しませてもらっているのだけど、世の中的にはダメージ受けてる方も見かける。さらに大きな影響は、横で黙って見ている人たちにとって、発信への抑止要因にもなっているであろうこと。
本来、世に広めるべきものを持っている人が、その恐れから行動できないのなら、実にもったいないことだ。(起きてもいないことを恐れて何もしないことが、合理的な行動だとも思えないけれども)
今から書くのはそんな状況についての考察であり、
- テーマの重要度(の低さ)に対して、過剰に強い反応をしてしまうネット上の人たちの心理とはなにか?
- それを受けた時、発信者は、どのようにディフェンスすればいいのか?
目的の1つは、情報発信に興味ある人たちに届いて、行動の力になること。
アイデンティティ論
なぜこうなるのか?
まず考えられるのは、それがアイデンティティの一部を構成しているからだろう。アイデンティティとは、自分が何者であるか、という自意識の集合体。
まず考えられるのは、それがアイデンティティの一部を構成しているからだろう。アイデンティティとは、自分が何者であるか、という自意識の集合体。
「練習量を積み上げることで、速くなるだろう」
なら、単なる身体機能 or 合理性レベルの話だ。でも、
「練習量を積み上げることで、"理想の自分"に近づけるはずだ」
なら、合理を超えたアイデンティティの話になる。
そんな中で、
「練習量を積み上げても、速くなるとは限らないよ」という合理性レベルでの意見を目にして、
「"練習量を積み上げることによって理想の自分に近づいていたはずの自分自身"への攻撃」と受け取ってしまう。
つまり、「アイデンティティとは相容れない事態」が現れたとき、「自分自身が攻撃された」かのように受け取ってしまう。それが自分にとっては本来どうでもいい事であったとしても。

「認知的不協和」理論
これは、自分自身のアイデンティティを防衛しようとする心理のしわざ。この仕組みは、「認知的不協和」として理解できる。
たとえば、悪い人に騙された被害者が「いや、あの人は本当は悪い人じゃない・・・」とか悪い人の味方をし始めたりする。(高確率で新たな悪い人が現れ、「可哀想に、ワタシが取り戻してあげよう」的に騙しにきて、さらに信じてしまう。。)
この心理状態とは、「騙された愚かな自分」という状態を受け入れられず、現実を見るレンズの方を曇らせることで、自分の世界を整合的なものに保っている。
と書くとおかしな話なんだけど、人間心理には、常に「自分は正しいはず」という圧力がかかっているものだ。
状況を整理しよう。
- 客観: 目の前で、現に存在するもの
- 主観: 目に映る、自分が認識した世界
そして、人間心理は、この状態に耐えられない。
その解消のための対応は、二択なら、どちらか:
- 客観を正とする=自分の認識を改める
- 主観を正とする=相手がおかしいと思う
すると玉突き的に、相手(=情報の発信者)を否定せざるをえない。
ケーススタディ
たとえば、A.「糖質制限×スポーツ」というテーマは、
B.「白米/ラーメン食べる」という食文化とは、
整合性がないよね。
糖質制限派のAさんは、自分自身の課題(脂質代謝とか胃腸トラブルとか)を解決したいだけ。
一方で、白米食文化のBさんにとって、白米は自分自身が育ってきた個人史の一部であり、家庭で受けてきた愛情の一部であったりする。そのアイデンティティの一部と整合性のない事実を、そのまま受け止めるのは、自分自身を否定されたかのな感情が起こる。それに対する防御反応として、「あんなのおかしい」など否定的な言葉を発してみたりする。
すると、それを目にした糖質制限派Aさんは、Aさん自身が攻撃されたかのように受け取ってしまう。
実際には、Bさんが批判の言葉を吐いたのは、Bさん自身のアイデンティティを防御したいだけ。Aさんを攻撃するのは(仮にそういう言葉を取っていたとしても)Bさんの本心ではない。
こうして、なんてことのない情報発信が、荒れがちになる。
(・・・いや、あまりリアリティない例でした、、失笑。A-Bもっといい例で入れ替えてお読みください)
どうすればいいか?
基本スタンスは、「自分は正しくも間違ってもいない」というニュートラルなポジションにいること。
つまり、思考や判断を、自分自身から切り離すこと、だと思う。
考えとは、常に「仮説」にすぎない。
「まずは、こっちが正しい」として行動してみる。
やってみて違うなと思ったら、仮説を修正して再行動する。
その繰り返しだ。
それは行動であって、自分自身=アイデンティティとは独立したものだから。
攻撃は弱点をあかす
1つ追記すると、上記ケースで、BさんはAさんを攻撃しているかのようでいて、実際には、Bさん自身が守りたいもの=もっといえば、弱点を、露呈している、ともいえる。なにか不当な攻撃を受けてるな、という場合に、
「この人は "こういう攻撃をすることによって守りたい弱点" があるってことだ、それは何だろう?」と分析してみるのは、人間観察の良いトレーニングになるかもしれない。
逆にいえば、不用意な攻撃をすると、しなくてもいい自己開示をしてしまう。僕も注意するとしよう。
結論
結局、ネット上では、プラス要素だけを拾い、そして提供していけばいい。この文章が、「これから何かを発信していこうかな、でも、、、」という方に届いて、そのうち誰か一人でも行動を起こしてくれるのなら、僕は嬉しい。
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